裏側神族の存在を、科学という方法を以って肯定も否定も出来ない

科学=機械論と超越神の第1の関係

超越神とは、この世界の外側に存在し、この世界を創造したとされるユダヤ・キリスト・イスラム教の神である。宇宙=神という汎神論や、宇宙の内部の存在する超能力者の極みのような多神教の神々と区別するために”超越”神と呼ばれる。

さて、超自然な”説明”を排除する方法論的自然主義という原則を持つ科学は、もとはMechanism(機械論)である。機械論とは:

機械論哲学の基本的主張は、自然現象は機械的な原理に従っていて、その規則性が自然の法則、望ましくは数学公式の形で表現される、というものである。(p.133)

[J.H. ブルック (訳: 田中靖夫):科学と宗教, p.133]

というものだが、これは超越神を否定するものではない。むしろ、2つの方法で神を賛美し、神の存在を証明するものとみなされた。

機械論で記述された見事な機械仕掛けの宇宙を創造した超越神はすばらしい。あるいは、見事な機械仕掛けの宇宙は、超越神よって創造されなければ、存在し得ない。

機械論で記述できない現象こそ、超越神による自然界への介入=奇跡である

自然法則とは、秩序の根本原因でる神の意思が表現されたものであるが、神を拘束するものではない、神は望むならば別のやり方でも行動することができるのだから。機械論哲学は奇跡の起こる可能性を排除したのではなく、真の奇跡を認識する手段をはっきりさせた。自然法則のことばで説明しえない出来事、それこそが奇跡なのである、と。

[J.H. ブルック (訳: 田中靖夫):科学と宗教,(p.142)]



このうち第1の超越神をKumicitは裏側神族と呼ぶ(科学の手が届かない、科学の裏側にいるから)。この超越神は、自然法則と初期値の考案と実装し、観測対象に干渉せずに観測することができて、科学的にその存在を検出されない。

科学的に見つけられないのだから、決して科学で裏側神族を記述できない。すなわち、裏側神族の存在を、科学という方法を以って肯定も否定も出来ない。つまり、いても、いなくても科学的には同じ。そんな裏側神族は「余計な説明を持ち出すな」というオッカムの剃刀により、その存否に関わらず、科学から排除される(存在を否定されるのではなく、取り扱い対象外とされる)。

機械論の原点に立ち返れば、機械論は神の被造物たる機械仕掛けの宇宙を自然法則で記述するものである。従って、機械仕掛けの宇宙の創造主たる神は記述の対象ではない。











忘却からの帰還: 科学と神の関係